【特集】ライダースポンサー制度7:日本のスポンサー契約制度の始まり(本特集最終回)

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2016-08-02 20:54:57

カテゴリー:ライダースポンサー制度


st-skateboarder.jpg

今回は「7」です。

今回でこの特集は最終回です。

では、どうぞ!

↓↓↓↓↓


スケートボード・ライダーにとっての

スポンサー制度は、ライダーとしての

活動の様々な構成要素の軸となる部分。


例えば、スポンサーが付いている場合、

・ブランドにスキルを認められた人
・ブランドのアイテムを支給されている人
・ブランドの一員(仲間)
・スケートボード業界の人

などなど、

簡単なイメージだけでも、

やはり「スケートボーダー」として、

業界的(世間的)に正式な人材である、

というイメージがあると思う。


interstyle_kaijo.jpg

勿論、スケートボーダーであれば、

プロ・アマ問わず、

正式なスケーターであるのだが、

やはりアマチュア・スケーターにとって

スポンサーを獲得することは、

非常に格好いいことであり、

まずは最初の&最大級の

憧れであることは間違いない。


前回記事でも告知的に触れた通り、

実際の日本のスポンサー制度についてだが、

主に今現在メインストリームである

「ストリート・スケートボード」について、

少しだけ背景の流れにも触れておこう。


hiskater.jpg

そもそもスケートボードの紀元は、

サーフィン文化の影響下にて、

意味合い的に「ストリート」から

始まっている。


そして、

様々な紆余曲折を経て今現在に至る。


特に、今の土台に繋がる注目すべきは、

スケートボード発祥の地、アメリカで、

「ストリート」、というジャンルが、

商品カテゴリー、コンテスト種目等に

明確に確立されていったのは、

1980年代後半頃から。


1970年代中盤から

スケートボード文化が本格化した

当時の日本では、

まだまだスポンサー制度は

発達するまで成立していなかった。


1980skatecontest.jpg

今回特集の過去記事でお伝えした定義の、

フロー・アマ・プロという枠組みも曖昧で、

実際、アメリカの業界&シーン自体でも、

最初はアマチュアとしてデビューをし、

明確な基準が外部には判らないまま、

ブランドや仲間内からスキルが認められ、

シグネチャー・デッキをリリースしたら

プロである、という見方や感覚が強かった。


その後、1990年代に突入し、

パウエル&サンタクルーズの黄金時代が、

所属ライダーの相次ぐ移籍や

次世代のたち台頭等により、

徐々に終焉を迎えて行った延長線上で

新たなブランドが幾つも誕生し、

その際、各ブランドの戦略スキームとして、

今現在の「ストリート・スケートボード」の

スポンサー制度のベースが構築され始めた。


アメリカをモデルケースに、というか、

文化輸入国であるここ日本では、

「アメリカこそスケートボードのルール」

という認識or意識が強固な時代だった為、

そんなアメリカのスタイルを見よう見まねで

(1980年代後半迄は物品支給サポートが主)

「スポンサー制度」というものが

徐々に誕生し、浸透して行くことになる。


しかし、

世界中をマーケットにするアメリカと、

マイナー文化として存在する日本では、

実状は全く違い、

そもそもメーカー自体の力すら違い、

プロモ形態の規模や方法論すら違った。


又、当時の日本のメーカーには、

時代の変動が急激なスケートボードを

芯から理解する人材が皆無だったため、

(特に新たなストリートに関しては、)

ビジネスサイド(販売する人)と

カルチャーサイド(乗る側の人)とでは、

スケートボードに対する認識から、

求めるものにすら異質の壁が存在した。


worldmapja.gif

そこで、日本のスポンサー制度の待遇だが、

最初は「物販支給のみ」が主な形態だった。


日本のストリート・スケートボード創世記に

その時代を担ったストリートライダーには、

今現在では名前すら残っていない感があるが、

代表的なストリートのプロスケーターに、

川村諭史、

長島亘、

小澤彰(現T-19)、

江川良文(Yoppy)、

田中大輔(Diskah)、

杉山琢哉(現、苦死極道)、

石原和晃(ハッチャキ)、

川田佳人(ESOW)、

早坂昌記(ディックマン)、

クリリン(現ROCK DESIRE ‘S DJ)、

OZA氏(King Kong Ruber)など、

他にも多くのレジェンドが存在した。


又、川村諭史は、「Alva」から、

ハッチャキは、「SMA」から、

田中大輔は「Z-BOYZ」から、

Yoppyは「Slender」から、

クリリンは「TEAM HOSOI」から、と、

日本のストリート・スケートボードの

第一世代にも、日本の枠を飛び越え、

インターナショナルに活躍するプロが

数名誕生していた。

この世代から、

日本のストリート・スケートボードの

スポンサー・ライダーという概念が始まる。


そのはじまりは、

勿論、それまで存在していた

既存の日本の業界&シーンが

あってこそなのは言うまでもない。


マイナー文化にも関わらず、

多くの先輩スケーターが情熱を燃やし、

日本のスケートボード文化の存在を

現実的に形成していたのだ。

アマチュア・スケーターは皆、

彼らの背中を追いかけていた。


彼らが居なかったら、

今のスケートボード文化は、

文化的に非常に後退していた、

また違ったものになっていただろう。


rasen_stear.jpg


そのころのスポンサー制度だが、

上記で名前を挙げたほとんどのプロが、

ほぼ「物品支給のみ」の待遇であった。

当時のコンテストも「プロクラス」と、

明確な「プロ表現」の無いものが多く、

「Aクラス」等と言われていた時代だ。

大会賞金が発生しはじめたのは、

ランダムすぎて明確なのは忘れたが、

私がプロに昇格をした

15~16歳あたり(1991前後)。

最初の賞金額は、1~3万円位だった。

その後、そんな時代が長年続くことに。

勿論、全く食えるレベルではない時代だ。


時代を支えた彼らも、

ライダーとしてスケートのスキルだけで

金銭支給がなされていたプロは皆無で、

マイナーな業界メーカーには実際、

スケーターに広告料を支払えるほど、

大きく潤っている会社も少なく、

又、普段の業務の忙しいメーカーには、

激しく変動するシーンに対し、

スポンサー制度の有効活用法を

戦略的に見い出すことすら難しかった。

事実、これが、

日本のストリート・スケートボードの

スポンサー制度の最初の姿、

と言っても過言では無いだろう。


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しかし、ここで触れておきたいのが、

全く金になっていなくても

時代を支え続けていた先輩達の

スケートボードに対する情熱である。

それ以前の

更に上の先輩達も同じである。

その情熱が、

今のシーンの存在の根幹にある。

それがあったからこそ

スケーターは存在と価値を維持してきた。

これを前提としたい。


ちなみに、

わたくし米坂真之介は、その次の、

日本ではストリート第二世代に当たる。


skate19901980.jpg

その後、発祥の地アメリカでも、

ストリート・スケートボードが、

確固たるメインストリームとして

明確に確立を果たす1990年代前半頃から、

徐々に日本のスポンサー制度も

大きく変わっていくことになった。


1990年代中盤、

まだまだ「物品支給のみ」が

日本のスケートボード業界の常識だった頃、

徐々に雑誌等をプロモ媒体の中心に、

商業的利益を伸ばして行くメーカーが増え、

その広告関連でスケーターが、

ストリートファッション雑誌等へ露出。

少しずつスケーターの存在と名前が、

世間に流れて行く時代が訪れてくる。


民間のマイナーレベルではあるが、

徐々に知名度を獲得するスケーターが増え、

メーカーの広告を貴重とする雑誌等の

スケートボード文化に対する

バックアップも強化されていく。


そこで、

知名度を伸ばして行くスケーターを主に、

メーカーが商業的価値を感じはじめ、

徐々にスケーターへの金銭還元が始まった。

現実的に、社会でスケートボードが、

文化として飛躍的に認知されたはじまり、

文化として存在している具体的な証拠、

というべき事実(事例)である。


各メーカーの手法やスポンサー形態は、

各メーカー毎に違い(今現在もそう)、

その内訳を話すスケーターもほぼ居ない中、

しかしながら「スポンサー契約制度」が

極めて普通の手法として定着をしていった。


ストリート・スケーター皆が、

「契約」というものを

普通にこなしていく時代に突入して行く。

中にはまだ、

契約をしないまま物品支給を受ける

プロスケーターも多数居たが、

スケーターが「契約制度」の根本を

徐々に学ぶ事によって、

事実、過去の「スポンサー制度」が、

「スポンサー契約制度」へと成長した。


spons_akusyu.png

先に述べたように、

他のプロのスポンサー契約の中身は、

そこまで多くの詳細は誰も判らないし、

又、人によって待遇や形態が異なっていたが、

ストリート・スケーターである自分たち周辺の事例で、

明確に大きく変動したのは、

(日本では)1994年前後である。


最初にスケートボード・メーカーで、

スケーターが少しでも食べれる状況を、と、

特に気を使ったのは、

スケートボード協会と、そこに直結する、

「デッキ・ブランド」を取り扱う

メーカー(輸入代理店)であった。


協会からはプロ資格が発行され、

コンテストの賞金額が優勝15万円に。

そこへ協賛するメーカーの多くが、

協会の意向を反映し、所属ライダーに、

僅かながらでも金銭を支給するようになった。


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動き出したのは業界だけではない。

というか、その背景には、

スケーター自身の精力的な活動があった。


「シーン」であるスケーター側も、

自身が「プロスケーターとして喰いたい」、

という、当時ではかなりハードルの高い

「スケーターとして純粋な夢」を追うため、

渡米を繰り返し、アメリカのシーンと繋がり、

日本の輸入代理店を飛び越え、

直接、海外ブランドに加入する、という

つまり、日本がアメリカから

日本人である私たちのデッキ等を

輸入するという逆転の法則をスキルで狙った。

これは、国内スケーター最大の戦いだった。


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この、アメリカ修行とも称された活動は、

当時、数少ないプロスケーターしか

実行しえなかったが(全て自己負担の時代)、

その活動に励んだスケーターから

国内でも更なる影響力を獲得していった。

又、当時の協会やメーカーだけの力では

無理だったスケートビデオ制作等も

全国各地のスケーター達は精力的に行い、

その動きが全国規模で定着していった。

他にも、いろいろな要素はあるが、

そうして自身で影響力の獲得を

現実的なものにして行った結果、

そして、先に述べたように

雑誌等のプロも媒体に露出し、

「契約制度」を学習していった結果、

今まで長年メーカーにのみ

支えられていたスケーター自身が、

過去よりも業界内で

大きな影響力を持つ存在へと、

徐々に時代がシフトしていったのだ。


そこには、アメリカでの

スケート・シーンの性質の変化も

大きな要素となっている。


アメリカのブランドも、

過去はスタイル性重視の時代から、

特にH-STREETの複合トリック革命後、

スキル重視の時代に変わっていった。

そして、今のように、キャラよりも、

スキルのあるスケーターが影響力を持つ、

という時代になった事実は大きい。

事実、それまでは複数のライダーが

パートを構成する事が多かったが、

スキル重視の時代へ移行するに連れ

個人パートの時代へと移り変わり

スケーターという存在が、業界内でも

個人レベルで影響力を獲得していく時代に。

世界的に、この流れは、

ストリート・スケーター個人が

スポンサーを獲得していくための切っ掛けを

幾つも創り上げた。

代表的なので言うと、

「スポンサーミー・ビデオ」などは有名だろう。


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そして、

ここが今回の話の中枢であるが、

日本のスケートボード業界で、

かつて「コーシン」という(今は亡き)

メーカー(輸入代理店)が存在した。


当時、コーシンに所属していた

メイン・プロスケーターは、

主に、米坂淳之介、岡田晋、荒畑潤一などの

当時の日本有数の実力派プロ達、

そしてわたくし、米坂真之介である。


他のライダーはそれぞれ契約を交わし、

その詳細は定かではないが、

私自身は、

「これだけ人を死ぬほど熱中させる

スケートボードという文化が

発展しない訳が無いはず」と

心から強く信じていたため、

そのコーシンに対し、

様々な企画書を提出し、

媒体露出の機会を活用し、

スポンサー報酬の交渉を何度も行った。


PCなど無かった手書きの当時、

今思うと、恥ずかしい企画書だったの、

なんのってw。


でも、運良く、その当時、

コーシンが広告を投げていた、

ストリート文化に影響力を持っていた

月刊Fineという雑誌内でのコーナー、

「全国スケーター人気ランキング」にて、

男女総合で一位を獲得できた辺りから、

スポンサー報酬を月給制にすることに成功。

報酬額も、最終的には納得のいく額には

届かなかったが、つり上げに成功した。

そして、サラリーマンの初任給程度までは、

プロとしてライダーが手に出来る時代を、

なんとか創り上げることに成功した。


こう聞くと、

サラッと上手くいったようにも

もしかしたら、聞こえるかもしれないが、

それまで私自身、

コーシンに無数の企画を提案したし、

何度も報酬ゼロの仕事も数多く請け負った。

活動支援をしてくれるありがたい

「企業スポンサー」ではあるが、

ある意味、その付き合いは、

ビジネスサイド vs 文化サイドの、

「交渉」という長い大人の戦いだった。


これを皮切り&モデルケースに、

私は、自分に付いていた

14社のスポンサー企業に、

企画以外のある手法を幾つか用いながら、

時間を掛け、最終的にその半数以上に

ライダー側から提案する契約制度内容に対し、

賛同&承諾を勝ち取る事が出来た。


いつも、

誰もが挑戦していなかった事をする際、

幾ら丁寧に説明をしても、

大抵の人は、その価値に気付かない。

また、そうなってからでないと

その存在や必要性に気付かない。

その後やGATE等も含め、

僕の行う改革の最大の難所はいつも、

時代を切り開く際に生じる、

人々の想像を超えたエリアにある

そんなギャップであったと思う。


事実、現在AJSAがTAMPA参戦権を

今年からライダーに与えるが、

私は、GATEでそれを11年前に実現している。

下手な自慢とかでは全くなく(事実を観よ)、

これだけをみても私個人の思考と動きは、

時に業界の10年以上先を行ってしまう。

判る人には大きな力に感じて貰えるだろうが

業界や当事者が気付かないのであれば、

「厳しい人」、「難しい人」と思われ、

これはこれで、問題なのである。

特に子供の世界では。


もしかしたら、

革命家や起業家の抱く孤独感の壁とは、

こんな部分なのかもしれない、と、

ちょっと大袈裟に想像してみたりもしたw。


その後、この事例は、

コーシン内の他のライダーや

業界内の他のメーカー企業にも

徐々に広がって行き、

多くのブランドが、

スケーターにお金を払うようになっていった。



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しかし、私自身は、

今までいくら有能な先輩プロでも

全く喰えないままシーンから姿を消していった、

文化として、

非常に厳しい現実を見てきた一人として、

日本のスケートボード業界内のシーンを

僅かながら成長させれたことに、

スケーターとしての夢へ一歩近づけたことに、

無かった物を有りにできたことに、

ある一定の充実感は、多少なり感じれていた。


又、スケーターとして、慎ましいながら、

スケートボードで生活が出来るようになり、

テレビ出演、映画出演、メジャー雑誌、

政治家や芸能人との共演のお仕事など、

公共の場への仕事も入るようになった。


つまり、

スケートボードで食べて行ける事により、

「プロスケーター」という小さな肩書きが、

一般社会で「現実的に存在している職業」

として、やっと少しだけ認められたのである。

現実=事実を創る、これが大事であった。


「プロスケーターになって喰いたい」、

それは、スケーターにとって最大の夢。

しかし、それは、

この社会では、

単なる「名刺的な始まり」でもあった。


尚、勿論、スケートボードの

スキルが有ってこそスポンサーが付き、

その先の道もスキルで開けるのだが、

スポンサーとの付き合い方は、

そして、社会でのスケートボードは、

スキルとは全く別のものであった。


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今現在は、

この時代のシステムを基盤に、

当時よりも多くの報酬を手にするプロも多い。

スケートボードの人気の成長に伴い、

メーカーやブランドも商業発展を遂げ、

1990年代には僅かしか存在していなかった

国内ドメス・ブランドも他数増加した。

日本人でも世界に通用する

スキルのライダーが徐々に増加してきた。


スポンサー契約制度のシステム自体は、

どこも、そう大きくは変わっていない。

未だに物品支給のみのメーカーも他数存在する。

しかし、

今後は、私の通った時代や今現在よりも、

もっと期待出来る時代が来るだろう。


スポンサーとは、

スケーターにとって非常に大きい存在。

今回の話が、日本のスケーターの皆に、

何かしらのヒントとなれば、

私自身、非常に幸いである。

キーポイントは、

幾つか忍ばせておいたつもりだ。


こうして、私は、

スケートボードで、

大人になったのである。


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【特集】ライダー・スポンサー制度(完)



※追伸
スケートボードは、本気でやれば、
必ず君を立派な大人にしてくれます。
日本のスケーター達よ、頑張れ☆

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